戦争体制下にあった昭和14年、合名会社丸亀仲仕部は地元の同業社と合体して釧路石炭荷役株式会社を創立することになり、雑貨の船内部門を切り離すことにした。この分離にあたり、下川部精一は丸亀仲仕部の船内作業を引き継いで有限会社丸亀港組仲仕部を旗揚げした。49歳にして果たした独立であった。
沿革
昭和14年8月(1939年)有限会社丸亀港組仲仕部設立
昭和21年9月(1946年)協立組仲仕部設立
昭和16年9月、港湾運送事業等統制令の施行で釧路港は「一港一社」の港運会社設立が指定された。その為、丸亀港組は解散し、下川部精一は釧路石炭運送の取締役に就任された。
昭和20年8月、未曽有の大戦が終わりを告げ、これを機に下川部精一は、再び戦前と同じく船内荷役を専業とする丸友協立組仲仕部を創立したのであった。
昭和24年5月(1949年)旅客定期航路事業、運送業を目的とする共栄通船株式会社を設立
悪条件の多い特殊作業を請負うという試練を乗り越え、社長陣頭で戦後復興に努力した協立組仲仕部は、昭和24年5月、旅客定期航路事業と運送業を目的に共栄通船株式会社を設立し、いよいよ9月から営業を開始したのである。乗組員の海上バス、港内交通船として発達し、さながら海のタクシーとして活躍した。
昭和26年8月(1951年)船内荷役事業の登録を受ける
港湾運送事業等統制令が昭和21年9月に廃止されてから港湾荷役業は自由営業となったが、事業の性格は公共性が強いため適切な規制によって、運営秩序を確立する必要があった。そしてようやく昭和26年5月に港湾運送事業法が成立し、6月20日施行となった。協立組仲仕部は、戦前からの船内荷役実績によって適合とされ、8月には登録業者に指定された。
昭和27年9月(1952年)共栄通船株式会社を母体として協立仲仕部を吸収合併し、株式会社協立組を設立
戦後経済の一般情勢として多くの企業で合理化が迫られる中、共栄通船は協立組仲仕部を吸収合併した。
これを機に、更なる発展を目指したのであった。
昭和31年4月(1956年)旅客不定期航路事業の許可を受ける
世界遺産登録によって、いまや知床は注目の的となり人気の観光地になっているが、昭和31年に協立組は旅客不定期航路事業の許可を受け、昭和38年より毎年夏期間、知床の遊覧を応援するために客船を派遣。当時の知床観光に一役買っていたのであった。
昭和41年9月(1966年)会社商号変更(株式会社協立組を協立海上運輸株式会社に変更)
昭和41年9月、株式会社協立組から協立海上運輸株式会社に社名変更が改まったのである。共栄通船設立3年後に協立組となって14年、せっかくなじんだ社名だったが、これは戦前の組制度を連想させ、時代にそぐわないとの判断だった。
昭和60年12月(1985年)一般貸切旅客自動車事業の免許を受ける
昭和60年12月、一般貸切旅客自動車事業の免許を得て、翌昭和61年4月17日から西港と都心を結ぶ連絡バスの運行を開始。平成8年には一般貸切のみの運行に切り替え船員の入れ替え、港湾行事等、港の足として大きな役割を果たす。
昭和61年7月(1986年)観光船(シードリーム)運航開始
旅客不定期航路(西港周遊航路)の免許を受ける。
平成9年3月に廃止
平成元年6月(1989年)観光船(シーグレース)運航開始
旅客不定期航路(東北海道周遊航路)の免許を受ける。
平成14年12月に廃止
平成3年(1991年) 下川部善彦代表取締役社長就任
1991年、代表取締役社長に下川部善彦が就任、就任後には釧路沖地震、北海道東北沖地震が発生する等、苦悩を乗り越えながらも業務改革を行い持続可能な企業活動をスタートさせる。
平成5年(1993年)事務処理のシステム化を開始
平成20年6月(2008年)「海技士養成援助制度」の創設
釧路港内で大型船の往来をアシストするタグボートの船長、機関長の資格を有する若い優秀な人材を地元企業として育成するため、2年間の修学に必要な費用を全面的にバックアップする独自の奨学金制度を創設。
(初年度として、地元高校卒の2人が国立清水海上技術短期大学に入学)
平成25年8月(2013年)『港湾業務システム』運用開始
(詳細は港湾業務システムに掲載)
平成30年(2018年) 下川部知洋代表取締役社長就任
2018年代表取締役社長に下川部知洋就任